「八百比丘尼の松」
日本道中記より引用です。
老船頭は指さして、八百比丘尼の松はあれにて候、比丘尼はこの村(村)高津(たかつ)某(それがし)の女(むすめ)にて、妙齢の頃、一と年庚申(こうしん)講(こう)の夜、異人に拉(つ)れられ行きて不老の薬を得たりとの事にて、齢(とし)老(おゆ)れども、容(かたち)は衰えず、若狭小浜の健康院空印禅寺(けんこういんくういんぜんじ)に入(い)り、遐齢(かれい)実(じつ)に八百歳(さい)、岩窟のうちに結跏(けつが)し、寂(しゃく)を示したりと伝はりをり候、武内宿祢翁(たけのうさのすくねおう)も、この比丘尼の齢(とし)に較べては孫の孫の孫にも当たらずと存じ候。
不老は人間の憧れでもありますが、悲劇っぽい話ですね。(笑い)
老船頭は指さして、八百比丘尼の松はあれにて候、比丘尼はこの村(村)高津(たかつ)某(それがし)の女(むすめ)にて、妙齢の頃、一と年庚申(こうしん)講(こう)の夜、異人に拉(つ)れられ行きて不老の薬を得たりとの事にて、齢(とし)老(おゆ)れども、容(かたち)は衰えず、若狭小浜の健康院空印禅寺(けんこういんくういんぜんじ)に入(い)り、遐齢(かれい)実(じつ)に八百歳(さい)、岩窟のうちに結跏(けつが)し、寂(しゃく)を示したりと伝はりをり候、武内宿祢翁(たけのうさのすくねおう)も、この比丘尼の齢(とし)に較べては孫の孫の孫にも当たらずと存じ候。
不老は人間の憧れでもありますが、悲劇っぽい話ですね。(笑い)